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2004年 4月
「お父さん、、お父さん、、お父さん、、、」
何百万回 呼ぼうとも 父はもう 戻っては来ぬのだ。
3月26日 午後2時42分 父が死んだ。
朝、夢を見た。
病院のベッドで寝ていた父の、全ての点滴が外されていて、
「えっ!?」と不安になった。
すると父の目がパチッと開き、病室にいた母と私で、父を抱き起こすと、
長い間体を起こした事のなかった父は、元気になって癌が全部消えたというではないか。そして私達はにこやかに会話するのだった。
そんな短い夢は、電話の鳴る音でかき消えた。
「お父さんが危ないんやって・・」 不安そうな母の声。
前日も、危ないという事で親戚が病室に集まったりしていたのだが、
大丈夫そうだったので解散。
今日も、きっとそうだろう、、と思いながらも、母に頼まれた買い物をしに
スーパーへ向かう。
必要なものを買って、家に向かう帰り道は、空がとても綺麗な白んだ青で、
春が待ち伏せているような透き通った空気を胸いっぱいに吸い込むと、
父がこの空気を吸えたらどんなにいいだろう、と思った。
砂利道を歩く、自分の足音だけが聞こえるような、暖かく、そして静かな日だった。
車を走らせ40〜50分、病院に着く。
病室へ行くと、既に親戚が集まっている。が、病室は静かだ。
父の近くへ行く。と、父は呼吸困難に陥っていて、白目をむき、呼吸がとてもか細い。
背筋がゾッとし、「お父さん」と呼びかける。
手をにぎって、「お父さん」と呼びかける。
反応はない。
白目をむき、ひたすらがんばって呼吸をしている。
大きくてガッシリしていた父の手は、マシュマロのように白く、やわらかかった。
どっしりとしていた父の足は、ホワイトアスパラのように細く、小さくなっていた。
首に目をやると、頚動脈が、もの凄い速さで、動いていた。
父の顔は、前日と比べようのない程、あきらかに違っていた。
頬はこれ以上ないくらいこけ、唇はないに等しかった。
酸素の吸入マスクをしている口からは、たまにボォーという呼吸音が鳴っていた。
死神が来ている。
そう感じた。
死神は部屋の隅にいると思った私は、角隅に目をやり、「出てけ!」と何度も念じた。
でも、実際は枕の左側で、そっとたたずんでいたような気がする。
父の呼吸は、ボォーボォーと鳴ったり、今にも止まってしまいそうなくらい細くなったりしていた。途中、トイレに行った時には、父の呼吸が止まっていたらどうしよう、と不安になりながらも、病室に戻って、安心するのだった。
そして私は、何度か消え入りそうな呼吸を感じ取ると、「お父さん!」と呼びかけ、
父の呼吸を長引かせようとしたのだ。
そうしてるうちに、県外の大学に行っている弟が着いた。2時すぎだった。
弟も今までの様子から、今回もいつもと変わりないだろう、と思っていたのだと思う。
父の様子を見て、違うと分かった。
父の手を握り、「お父さん、俺やで。俺、来たよ!」と呼びかける。
反応はない。
でも弟は、そうして、父の手を握りながら、ずっと話し掛けていた。
その20〜30分後だろうか、父の呼吸の感覚が長くなっていき、今にも止まりそうなので、
「お父さん、お父さん!」と皆で呼びかける。
次第にそれは叫び声に変わり、、、、「お父さん!お父さん!お父さん!!」
父の呼吸が止まった。
「お父さん!呼吸せなあかんのやで!ほら、がんばって呼吸して!」
「早く!お父さん!がんばれ!がんばって!!」
父がかすかに呼吸を戻す。
「そう!そうやで、呼吸するんやで!」
「呼吸せな死んでまうんやで!お父さん!お父さん!!」
呼吸を2、3度したかと思うと、
ボォーーーーーーーーーー
という音を口から出して、完全に呼吸は止まってしまった。
父の呼吸は 完全に 止まってしまった。
お父さん!お父さん!お父さん!お父さん!お父さん!お父さん!
お父さん!お父さん!お父さん!お父さん!お父さん!お父さん!
お父さん!お父さーん!お父さーん!お父さーん!お父さーん!お父さーん!
うっ、、、ぐ、お父さん!お父さーん!お父さーん!うわぁああああ!!お父さん!
お父さん!お父さん!お父さん!お父さん!お父さん!お父さん!
ポン。
我を忘れて泣き叫ぶ私の肩を親戚の叔父が叩いた。
後ろを振り向くと、ベッドの向こうに主治医が立っていた。
父の呼吸が完全に止まってから10分後くらいだった。
遅すぎる。。!
私はそのにやけたような顔をした30代くらいの若い医者に怒りを覚えた。
そいつは、そろそろと近づいて来、父の瞼を開いて、
ポケットから取り出したライトを照らした後、こう言った。
3月26日 午後2時42分 ご臨終です
それからは、とても忙しかった。
母が葬儀業者に連絡し、家に親戚たちが集まる。
葬儀についての色々なとり決めの話し合いだ。
私も中に入っていたが、そんな話し合いのさ中、親戚の叔母に
あんたのせいでお父さん死んだんやわ
と言われる。(私が外で働きもせずフラフラしているから。)
ははは・・そうやね。
と力なく返事をしたが、死にたい気分だった。
とりあえず、盛籠と花輪の注文数、並び順を決め、その後の業者とのやりとりはほぼ私がやっていた。
引き出物やお客様の布団など各種注文、注文数の確認(業者は3回もミスしていた)、席順決め、弔電の読み順、役所と火葬場への確認、寺との連絡、出欠確認、徴収や支払い、、、
とにかく走り回っていた。みんな喪服に着替えても、自分だけ着替える時間もなく、通夜が始まっても数分は平服姿だった。あちこちで呼ばれ、礼状の数を100枚も余分に注文するというミスもしてしまった。履いていた黒い皮靴は、裏が剥がれてしまった。
そうして走り回っていたおかげで、大金をかけた祭壇の写真をきちんと撮ることができなかったのがとても悔しい。父の棺も、薄紫色のとても綺麗なものを母が選んでいたのに。カメラを弟に頼む余裕もなかったのか?バカヤロウ!バカヤロウ!!
その夜は眠る暇もなく、夜中の3時頃に自分だけ一度家に帰り、業者に出すリストをパソコンで作った。(きちんと出さないとミスされるから。)
朝方はみんなの朝食を買って式場へ戻った。この時朝食を買いに寄ったコンビニが3月末閉店という事で、品数が全然なかった。しかもQUOカードで買うつもりだったのに、その店員がレジの通し方を知らなかったので使えず終い。箸を2本程余分にくれ、と言ったら「2本くらいならいいですよ。本当は駄目なんですけどね。店長に怒られるから。(笑)」とQUOカードの通し方も知らない奴(そのせいで5分程空白の時間を待たされた)にこんな事を言われ、ちょっとイラついた。
葬儀の日も朝から忙しかったが通夜よりはマシだった。
葬式が終わり、父の棺が運ばれて行く。
その後ろを、位牌を持つ母が続き、遺影を持つ私が続き、骨壷を持つ弟が続く。
霊柩車に乗り、家の前を通って火葬場に行く手はずだったのだが、最初に打ち合わせていた道路が工事をしていて、とんでもなく回り道をするハメになった。
後で業者には文句を言ったが、これは父が私達とできるだけ長い間一緒にいたいという思いが引き起こした偶然だったんだろうかと思う。
火葬場に着き、最後のお別れをする。
とても綺麗だ。綺麗で冷たい顔だ。
私は、用意しておいた色紙と家族の写真を3枚、そして父の名刺を胸の所に置いた。
棺は間もなく閉じられ、花々に包まれた父と私達の写真は釜の中に入り、重い扉が閉まった。
そして母が、点火のスイッチを、押した。
式場へ戻り、皆で食事をとるのだが、母や祖母や私はお酌をして周るので、全く料理は食べれない。自分たちの分は注文しなくても良かったか?と思う。そうしてる間に、時間が経ち、骨を拾いに家族は火葬場へと再び向かった。
父は完全に焼かれていた。
ショックとも現実ともとれぬ気分になる。
「お父さん、ちっちゃくなっちゃって・・・」 泣きそうな小さい声で母がポツリ。
まだ暖かい鉄板の上に、ほろほろと残った骨。
それを部分的に砕いて、火葬場の方が一片ずつ出してくれる。
「この部分が足やね〜、ここが手やね〜、ここが頭の部分やね〜、これが耳ね〜、
のどぼとけがこれやけどねぇ、あら〜・・、病気で大分弱ってたんやねぇ、かわいそうにねぇ・・まだ若いのに」
残った骨を見ても、どっちが頭でどっちが足かさえも分からないのを、丁寧に説明してくれるおじさんは、そう言いながら慣れた手つきでガッガッと骨を砕いていく。
コロコロと鉄板の端に並べていかれる骨を、私達は割り箸で静かに骨壷に納めていった。不思議な気持ちで、あるいは微かに震えながら。
式場に戻り、父の遺影の下に骨壷を置く。食事はまだ続いていたので、食事を楽しんでくれている様子の親戚たちの写真をカメラに収め、やっと自分が席についてみる。
もうほとんど時間はなかったので、ほんの少しつまんだ程度だったが。
式場の後始末を急いでし、寺に向かう。
本堂で位牌と遺影とお骨にお経をあげてもらう。続いて初七日のお経もあげてもらう。
それが終わると、別室に用意された茶菓子をいただく。
その場で四十九日の日取りを決め、解散した。
忙しく、長く、あっという間の葬儀だった。
葬儀の間は、晴天の爽やかな気持ちのいい日が続き、桜がとても綺麗だった。
父は、桜を見るのを楽しみにしていたらしい。 桜の下を母と一緒にドライブしたいと言っていたとか。
父は53歳だった。
葬儀が済んだ次の日には、激しい雨が降った。
2〜3日雨が降った。
家の横にある花壇には、赤くて大きくて、まっすぐと空に伸びるチューリップが咲いた。
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